2024年06月15日
松江の城山稲荷神社の石燈籠。
2019年05月30日(木)
島根県松江市の松江城が有る公園
が「 松江城山( じょうざん
)公園 」です。 その一画に城
山稲荷神社が有りまして、お参り
して来ました。二へドンは今まで
数多くの神社仏閣を巡りました。
その経験の中で、二へドンに 1番
ウマが合う神様は、稲荷神社だと
言う気がしています。 大昔、二
へドンが今の旦那と結婚話が持ち
上がった時に、相手の母親から反
対されました。理由がエグイで
す。「 高卒のお嬢さんなんて、
とんでもございません。 」
はあ!? あたし、そんじょそこ
らの大卒者より、教養有りますけ
ど? まあ、そんな訳で、熱海の
近くの来宮神社に「 結婚できま
すように 」とお参りをしたら、
本当に結婚出来て、現在に至って
いるので、二へドンの稲荷社好き
も、頷けますよね? なので、仕
事柄、全国津々浦々を歩くのです
が、稲荷社を見つけると時間が許
す限り、必ずお社の前で手を合わ
せる様にしています。
稲荷の神様の御使いがキツネな
ので、奉納されたキツネがいっぱ
い見られる城山稲荷神社ですが、
1枚目の写真の様に石燈籠も有り
ました。石燈籠は日本では古くは
奈良時代に寺院の灯りを保護する
為に作られたのが起源だと言われ
ています。元々はインドが起源
で、日本にはインドから仏教と共
に入ってきたらしいです。 で
も、現在はインドで石燈籠を見る
事は先ず有りませんよね。
奈良時代の石燈籠で残っている
物は3つ有ります。
☆ 當麻寺 ( たいまじ )
☆ 興福寺五重塔前の石燈籠の
基礎
☆ 興福寺中金堂前の石燈籠の
基礎
3つ在る内の2つは、もう基礎だけ
になってしまっているのですね。
二へドンは、もう何度も奈良の興
福寺境内を歩いているのに、今迄
気にもしなかったわ。丁度今年の
8月下旬に奈良に「 壬申の乱 」
の講演会を聞きに2泊するので、
興福寺の石燈籠の基礎は、絶対に
行って写真を撮って来ます!!
さて、2枚目の写真は、同じく城
山稲荷神社の境内に有ったもので
すが、これ、一体何の動物です
か? 稲荷社だからキツネと言い
たい所ですが、鼻面だけ見ると、
くまさん? 犬? キツネだったら、もっと耳がピンと尖っていないと。
誰か、この石像の正体を知っている方は、教えて下さいませ!
*****「 松江の城山稲荷神社の石燈籠。 」 ・ 完 *****
島根県松江市の松江城が有る公園
が「 松江城山( じょうざん
)公園 」です。 その一画に城
山稲荷神社が有りまして、お参り
して来ました。二へドンは今まで
数多くの神社仏閣を巡りました。
その経験の中で、二へドンに 1番
ウマが合う神様は、稲荷神社だと
言う気がしています。 大昔、二
へドンが今の旦那と結婚話が持ち
上がった時に、相手の母親から反
対されました。理由がエグイで
す。「 高卒のお嬢さんなんて、
とんでもございません。 」
はあ!? あたし、そんじょそこ
らの大卒者より、教養有りますけ
ど? まあ、そんな訳で、熱海の
近くの来宮神社に「 結婚できま
すように 」とお参りをしたら、
本当に結婚出来て、現在に至って
いるので、二へドンの稲荷社好き
も、頷けますよね? なので、仕
事柄、全国津々浦々を歩くのです
が、稲荷社を見つけると時間が許
す限り、必ずお社の前で手を合わ
せる様にしています。
稲荷の神様の御使いがキツネな
ので、奉納されたキツネがいっぱ
い見られる城山稲荷神社ですが、
1枚目の写真の様に石燈籠も有り
ました。石燈籠は日本では古くは
奈良時代に寺院の灯りを保護する
為に作られたのが起源だと言われ
ています。元々はインドが起源
で、日本にはインドから仏教と共
に入ってきたらしいです。 で
も、現在はインドで石燈籠を見る
事は先ず有りませんよね。
奈良時代の石燈籠で残っている
物は3つ有ります。
☆ 當麻寺 ( たいまじ )
☆ 興福寺五重塔前の石燈籠の
基礎
☆ 興福寺中金堂前の石燈籠の
基礎
3つ在る内の2つは、もう基礎だけ
になってしまっているのですね。
二へドンは、もう何度も奈良の興
福寺境内を歩いているのに、今迄
気にもしなかったわ。丁度今年の
8月下旬に奈良に「 壬申の乱 」
の講演会を聞きに2泊するので、
興福寺の石燈籠の基礎は、絶対に
行って写真を撮って来ます!!
さて、2枚目の写真は、同じく城
山稲荷神社の境内に有ったもので
すが、これ、一体何の動物です
か? 稲荷社だからキツネと言い
たい所ですが、鼻面だけ見ると、
くまさん? 犬? キツネだったら、もっと耳がピンと尖っていないと。
誰か、この石像の正体を知っている方は、教えて下さいませ!
*****「 松江の城山稲荷神社の石燈籠。 」 ・ 完 *****
2021年08月13日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 高根神社。
2021年02月19日(金)
茅株稲荷神社”の、道路を渡ったほ
ぼ向かい側の右手の階段を上がっ
たら、鉄棒、滑り台、ブランコ 2
つの小さな公園になっていまし
た。 着いた時間は16:30 ですが、
子供が遊んでいる姿は有りませ
ん。折角、遊具が有るのに、今二
へドンが上がって来た階段は草や
枝が積もっていて、最近人が歩い
た気配が有りません。その敷地の
端に、写真の高根神社のお社が有
りました。
額には「 昭和62年5月吉日 高根神社 献額者 八十三才 学山 」と書いてあり
ました。 小屋根付きの木の鳥居を潜り、6段の階段を上ります。
お社の中を覗くと、床は板張り、壁には紅白の幕が張り巡らされています。
高根神社に関する記念碑が置かれていましたので、転記しておきます。
「 高根神社 記念碑
当神社は、天保七丙申年五月の武蔵国秩父郡長畄村村鑑明細帳によると、
古くは高根権現といわれ、『 社地の儀与頭市郎兵衛持地之内に相立申候 』とある。
その後、明治初年の太政官布告神佛分離令によって神社に改められたものと思料される。
明治10年1月1日付、秩父郡長畄村地誌編輯取調書によると
『 御祭神は高彦根尊、神殿は村中央より東に拾四丁隔り芳嶋に在り、東西六間、
南北六間二歩 』とある。大正三年神社庁並びに県の指導により日本式神社に
合祀した。昭和19年2月1日、旧拝殿は小鹿野町大火によりて全焼神器も拝殿と共に
焼失した。 昭和52年12月、三菱鉱業セメントより高根山粘土譲渡の申出あり、
関係地主協議の結果、申し出の件を受諾した。 通称お高根山は、外観が前方後円墳に
酷似していた為、昭和53年12月4日、埼玉県文化財保護委員会の手により試掘調査を
受けた。 その結果、自然の山であることが確認され、昭和54年10月23日より粘土採掘
作業に着手、昭和56年3月末日、作業を完了した。
昭和56年5月、跡地を整地し、現在地に社殿を再建した。 茲( ここ )に由緒ある歴史を
辿り、拝殿の御奉献を為し得たことは、編に拡大無辺の御神徳の顕現と、氏子一同
ひたすら感激に堪えず、その由来を記し、之を後世に伝えんとするものである。
撰文謹書 黒田良作 」
歴史を風化させない様に、石碑に残す、氏子達の想いに、頭が下がる思いでした。
どうぞ、皆さんも、一人でも多くの方々に読んで頂きたいと思いました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 高根神社。 」 ・ 完 *****
茅株稲荷神社”の、道路を渡ったほ
ぼ向かい側の右手の階段を上がっ
たら、鉄棒、滑り台、ブランコ 2
つの小さな公園になっていまし
た。 着いた時間は16:30 ですが、
子供が遊んでいる姿は有りませ
ん。折角、遊具が有るのに、今二
へドンが上がって来た階段は草や
枝が積もっていて、最近人が歩い
た気配が有りません。その敷地の
端に、写真の高根神社のお社が有
りました。
額には「 昭和62年5月吉日 高根神社 献額者 八十三才 学山 」と書いてあり
ました。 小屋根付きの木の鳥居を潜り、6段の階段を上ります。
お社の中を覗くと、床は板張り、壁には紅白の幕が張り巡らされています。
高根神社に関する記念碑が置かれていましたので、転記しておきます。
「 高根神社 記念碑
当神社は、天保七丙申年五月の武蔵国秩父郡長畄村村鑑明細帳によると、
古くは高根権現といわれ、『 社地の儀与頭市郎兵衛持地之内に相立申候 』とある。
その後、明治初年の太政官布告神佛分離令によって神社に改められたものと思料される。
明治10年1月1日付、秩父郡長畄村地誌編輯取調書によると
『 御祭神は高彦根尊、神殿は村中央より東に拾四丁隔り芳嶋に在り、東西六間、
南北六間二歩 』とある。大正三年神社庁並びに県の指導により日本式神社に
合祀した。昭和19年2月1日、旧拝殿は小鹿野町大火によりて全焼神器も拝殿と共に
焼失した。 昭和52年12月、三菱鉱業セメントより高根山粘土譲渡の申出あり、
関係地主協議の結果、申し出の件を受諾した。 通称お高根山は、外観が前方後円墳に
酷似していた為、昭和53年12月4日、埼玉県文化財保護委員会の手により試掘調査を
受けた。 その結果、自然の山であることが確認され、昭和54年10月23日より粘土採掘
作業に着手、昭和56年3月末日、作業を完了した。
昭和56年5月、跡地を整地し、現在地に社殿を再建した。 茲( ここ )に由緒ある歴史を
辿り、拝殿の御奉献を為し得たことは、編に拡大無辺の御神徳の顕現と、氏子一同
ひたすら感激に堪えず、その由来を記し、之を後世に伝えんとするものである。
撰文謹書 黒田良作 」
歴史を風化させない様に、石碑に残す、氏子達の想いに、頭が下がる思いでした。
どうぞ、皆さんも、一人でも多くの方々に読んで頂きたいと思いました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 高根神社。 」 ・ 完 *****
2021年08月08日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 茅株稲荷神社。
2021年02月19日(金)
小鹿野ワーケーションツアーの自
由行動日も、夕食の時間まで後
少しになって来ました。茅株橋を
渡ると道路沿いに写真の赤い
鉄製の鳥居が見えましたので、道
路を渡ってお参りしてみました。
時刻は16:20 になっていました。
二へドンはお稲荷様ととても相性
が良いと思っています。30年程
前、結婚話が出た際、相手の母親
から「 高卒のお嬢さんなんて、
とんでもございません。」と言わ
れ暗礁に乗り上げた所、熱海の来
宮( きのみや )神社の来宮稲
荷社に結婚祈願をした所、無事に
結婚出来て、長男を授かり、現在
に至っていると言うご利益を頂き
ました。なので、散歩途中に稲荷
社を見つけると必ず必ずお参りさ
せて頂きます。 六星占術の細木
和子さん( 初代 )は、「 お
参りに行く時は、ちゃんと行こう
と計画をしてから行かないと。
何かのついでなんて罰当たりで
す。」と仰っていたけれど、二へ
ドンは全然気にしません。 逆
に、ついでにその神社に出くわし
たと言う事は、その神様から「
いらっしゃ~い。」とご招待を受
けたと思って頑張ってお参りします。
さて、この茅株稲荷神社は、数有る神社紹
介サイトにも載っていません。
現地に由緒を書いた木の板が有るのですが、
本文の墨が擦れ、全く読む事が出来ません。
残念無念。 小さな陶器のきつね像が、ずら
りと並び、お供えのお揚げも3つ奉納されて
いました。 参拝に来る人がいれば、何かこ
の神社の由来等を訊けたかもしれませんが、
何しろ人っ子1人歩いていないのです。
たまに車が通過して行く位です。
上に「 茅株稲荷社殿改築 」と書かれた
板が取り付けられていました。
「 遷座祭 平成 4年7月30日 」と記載が
有ります。
この稲荷神社の直ぐ右手と左手の両側が、小
さな墓地で、新しいお墓が並んでいます。
珍しいロケーションだと思い、印象に残りま
した。 2枚目の写真は、お社に近寄って
接写してみました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 茅株稲荷神社。 」 ・ 完 *****
小鹿野ワーケーションツアーの自
由行動日も、夕食の時間まで後
少しになって来ました。茅株橋を
渡ると道路沿いに写真の赤い
鉄製の鳥居が見えましたので、道
路を渡ってお参りしてみました。
時刻は16:20 になっていました。
二へドンはお稲荷様ととても相性
が良いと思っています。30年程
前、結婚話が出た際、相手の母親
から「 高卒のお嬢さんなんて、
とんでもございません。」と言わ
れ暗礁に乗り上げた所、熱海の来
宮( きのみや )神社の来宮稲
荷社に結婚祈願をした所、無事に
結婚出来て、長男を授かり、現在
に至っていると言うご利益を頂き
ました。なので、散歩途中に稲荷
社を見つけると必ず必ずお参りさ
せて頂きます。 六星占術の細木
和子さん( 初代 )は、「 お
参りに行く時は、ちゃんと行こう
と計画をしてから行かないと。
何かのついでなんて罰当たりで
す。」と仰っていたけれど、二へ
ドンは全然気にしません。 逆
に、ついでにその神社に出くわし
たと言う事は、その神様から「
いらっしゃ~い。」とご招待を受
けたと思って頑張ってお参りします。
さて、この茅株稲荷神社は、数有る神社紹
介サイトにも載っていません。
現地に由緒を書いた木の板が有るのですが、
本文の墨が擦れ、全く読む事が出来ません。
残念無念。 小さな陶器のきつね像が、ずら
りと並び、お供えのお揚げも3つ奉納されて
いました。 参拝に来る人がいれば、何かこ
の神社の由来等を訊けたかもしれませんが、
何しろ人っ子1人歩いていないのです。
たまに車が通過して行く位です。
上に「 茅株稲荷社殿改築 」と書かれた
板が取り付けられていました。
「 遷座祭 平成 4年7月30日 」と記載が
有ります。
この稲荷神社の直ぐ右手と左手の両側が、小
さな墓地で、新しいお墓が並んでいます。
珍しいロケーションだと思い、印象に残りま
した。 2枚目の写真は、お社に近寄って
接写してみました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 茅株稲荷神社。 」 ・ 完 *****
2021年08月01日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 琴平神社。
2021年02月19日(金)
小鹿野ワーケーションツアーの自
由行動日の午前中に神社仏閣巡り
をしました。 12:40 に原町のバ
ス停より西武バスに乗りました。
( 12:37 発が3分の遅れでし
た。) 12:50 松井田のバス停で
下車しました。宿の「 宮本の湯
」に行こうとした時に、琴平神
社の鳥居が見えたので行ってみま
した。国道299号線を秩父方面か
ら千束峠( せんぞくとうげ )
を下って来ると右手に見えます。
神社の境内の面積に比べると、
かなり急な石段を上がって行きま
す。石段の上に木の鳥居が有り、
注連縄は黄色でした。
社殿の中は暗かったですが、目
を凝らしてみると、畳敷きで和太
鼓が置かれていました。五色の吹
き流しが下がっています。 凄く
詳しい神社の由緒書の石碑が有る
のですが、尾ノ内百景氷柱を見に
行くバスの出発時間が13:30 だっ
たので13:10に一旦「 宮本の湯
」に戻りました。 尾ノ内百景氷
柱を見学し、またバスで戻って来
る時に、松井田バス停で下ろして
貰いました。バスの運転手さんが
「 琴平神社 」と言っても分か
らなかったのにはビックリしまし
た。 無形文化財の松井田神楽が行
なわれる地元の方なら知っている
神社だと思っていたのですが・。
15:23 から、18:00 の夕食までは
また自由時間なので、由緒書をじ
っくり読んでみました。( 以下
転記しておきます。 )
琴平神社の由緒
御祭神 大物主命
何事も願えば叶えてくれる神
御創立 天保10年10月10日
沿革 松井田耕地が上・下に分か
れ対立している事を憂えた有志が
計って天保10年10月10日琴平山の
山頂に社殿を造営し( 何事も願
えば叶う )といわれる琴平の神
を勧請し上松井田、下松井田の総
鎮守としたのが始まりという。
口碑によると琴平山は古くは(
山の神山 )と呼ばれ、その昔大
きな山津波があり、山頂に大きな
瘤が生じた。村人はこれを山の神
の仕業だとして小詞に祀ったとい
う。これは当社の勧請後摂社とな
っている山野神社である。山頂で
は不便であるとの理由から拝殿の
造営を企画し山野神社の地( 現
在地 )に昭和11年03月新築工事
を完成する。上松井田の守護神・聖天様が明治02年の神佛分離により琴平山頂に遷座されて
いたが、その後新社殿が造営され元の地に遷座されたので山頂の旧聖天宮を本殿として移築
し、御祭神・大物主命が遷座し給う。 その後昭和45年、麥藁葺きの拝殿、神楽殿の屋根を
亜鉛鍍金鉄板( トタン )屋根に改修する。
境内神社 御祭神
( 左手 )
☆ 山野神社 大山命( おおやまづみのみこ
と ) 山の御神霊。
無限の山の幸を恵給う。
☆ 秩父大神社 ・ 八
意思兼命( やごころお
もいかねのみこと )
政治、学問、工業、開運の神。
・ 知知夫彦命( ちちぶひこのみこと )
勇猛で情が厚く悪除けの神。
☆ 棚機姫神社 棚機姫命 ( たなばたひめのみこと )
織婦の神。
☆ 神日本磐余彦神社( かんやまといわれひこ )
神武天皇 我が国、肇国( はつくに or ちょうこく )の神。
☆ 大雷( だいらい )神社 大雷命( おおいかづちのみこと )
かみなり除けの神。
高龗命( たかおかみのみこと )
雨乞いの神。
大山祇命
八雷神。
明治11年夏から毎年の旱魃で田畑は乾き果てた。 これを憂えた農民達は雨乞い祈願を思い
立ち、当時有名な群馬県佐波郡赤堀村( 現在の赤堀町 )西久保 859番地 大雷神社の
御分霊を明治14年06月02日 琴平山の山頂に社殿を造営して勧請した。それから夏の日照
りには、農民は山頂に登り雨乞い祈願を行なったところ、その度ごとに雨が降ったので
松井田の雷神様と称し農民の作神様として有名である。
平成13年10月 吉辰
奉献者 浅学菲才にて神々の御神歴を誤り記し御神威を損なうことを危惧する
奉献 当所 323番地
八十 翁 豊田健男
七十八媼 豊田ハル子 」
二へドンはこの石碑を読んでいて、回りくどい文章で添削したくなってしまったのですが、
石碑の文章をそのまま記載しました。 ただ、石碑には句読点が無く、ブログを読み易く
する為に句読点を付け加えました。
境内には「 迎軍記念碑 」も有り、松井田神楽についての案内板も有りましたので、
これも転記しておきます。
「 小鹿野町指定無形民俗文化財
松井田神楽
昭和55年04月18日指定
天保10年( 1839年 )の創立という琴平神社の祭礼は毎年04月04日で、神楽殿では
神楽が奉納される。 明治14年( 1881年 )雨乞いの神社として知られる群馬県赤
堀村の大雷神社を勧請した後、雨乞い祈願を行なうことが多かった。 以来、松井田の
雷神様として親しまれ、祭礼が盛んになっていったという。 明治21年頃は、秩父市大
田の熊野神社神楽を頼んでいたが、明治23年頃から吉田町井上の貴布祢神社神楽師から
神楽を習ったと伝えられ、現在、18の座が伝承されている。 神楽を舞う人々の熱意は
高く、後継者への受け継ぎも盛んである。 地元の小中学生は小さいうちから練習にと
り組み、祭礼には熱心に神楽を舞っている。
平成28年04月吉日
奉献者 当所 323番地 豊田勝彦 」
小鹿野町の神社仏閣を徒歩で回って歩いて、どんなに小さな祠でも、きちんと案内板が設置
されている所が多く、地元の方々の、神仏を大切にして行こうと言う心に触れた様で頭が
下がる思いでした。 琴平神社の裏手に、山の上に通ずる石段が見えました。
登って行って、山頂のお社もお参りしてみたい気もしましたが、1人で草ボーボーの山の中に
入って行くのは怖い気持ちがして行きませんでした。 残念です。
次回、同行者がいてくれたら、是非山頂にも行ってみたいです。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 琴平神社。 」 ・ 完 *****
小鹿野ワーケーションツアーの自
由行動日の午前中に神社仏閣巡り
をしました。 12:40 に原町のバ
ス停より西武バスに乗りました。
( 12:37 発が3分の遅れでし
た。) 12:50 松井田のバス停で
下車しました。宿の「 宮本の湯
」に行こうとした時に、琴平神
社の鳥居が見えたので行ってみま
した。国道299号線を秩父方面か
ら千束峠( せんぞくとうげ )
を下って来ると右手に見えます。
神社の境内の面積に比べると、
かなり急な石段を上がって行きま
す。石段の上に木の鳥居が有り、
注連縄は黄色でした。
社殿の中は暗かったですが、目
を凝らしてみると、畳敷きで和太
鼓が置かれていました。五色の吹
き流しが下がっています。 凄く
詳しい神社の由緒書の石碑が有る
のですが、尾ノ内百景氷柱を見に
行くバスの出発時間が13:30 だっ
たので13:10に一旦「 宮本の湯
」に戻りました。 尾ノ内百景氷
柱を見学し、またバスで戻って来
る時に、松井田バス停で下ろして
貰いました。バスの運転手さんが
「 琴平神社 」と言っても分か
らなかったのにはビックリしまし
た。 無形文化財の松井田神楽が行
なわれる地元の方なら知っている
神社だと思っていたのですが・。
15:23 から、18:00 の夕食までは
また自由時間なので、由緒書をじ
っくり読んでみました。( 以下
転記しておきます。 )
琴平神社の由緒
御祭神 大物主命
何事も願えば叶えてくれる神
御創立 天保10年10月10日
沿革 松井田耕地が上・下に分か
れ対立している事を憂えた有志が
計って天保10年10月10日琴平山の
山頂に社殿を造営し( 何事も願
えば叶う )といわれる琴平の神
を勧請し上松井田、下松井田の総
鎮守としたのが始まりという。
口碑によると琴平山は古くは(
山の神山 )と呼ばれ、その昔大
きな山津波があり、山頂に大きな
瘤が生じた。村人はこれを山の神
の仕業だとして小詞に祀ったとい
う。これは当社の勧請後摂社とな
っている山野神社である。山頂で
は不便であるとの理由から拝殿の
造営を企画し山野神社の地( 現
在地 )に昭和11年03月新築工事
を完成する。上松井田の守護神・聖天様が明治02年の神佛分離により琴平山頂に遷座されて
いたが、その後新社殿が造営され元の地に遷座されたので山頂の旧聖天宮を本殿として移築
し、御祭神・大物主命が遷座し給う。 その後昭和45年、麥藁葺きの拝殿、神楽殿の屋根を
亜鉛鍍金鉄板( トタン )屋根に改修する。
境内神社 御祭神
( 左手 )
☆ 山野神社 大山命( おおやまづみのみこ
と ) 山の御神霊。
無限の山の幸を恵給う。
☆ 秩父大神社 ・ 八
意思兼命( やごころお
もいかねのみこと )
政治、学問、工業、開運の神。
・ 知知夫彦命( ちちぶひこのみこと )
勇猛で情が厚く悪除けの神。
☆ 棚機姫神社 棚機姫命 ( たなばたひめのみこと )
織婦の神。
☆ 神日本磐余彦神社( かんやまといわれひこ )
神武天皇 我が国、肇国( はつくに or ちょうこく )の神。
☆ 大雷( だいらい )神社 大雷命( おおいかづちのみこと )
かみなり除けの神。
高龗命( たかおかみのみこと )
雨乞いの神。
大山祇命
八雷神。
明治11年夏から毎年の旱魃で田畑は乾き果てた。 これを憂えた農民達は雨乞い祈願を思い
立ち、当時有名な群馬県佐波郡赤堀村( 現在の赤堀町 )西久保 859番地 大雷神社の
御分霊を明治14年06月02日 琴平山の山頂に社殿を造営して勧請した。それから夏の日照
りには、農民は山頂に登り雨乞い祈願を行なったところ、その度ごとに雨が降ったので
松井田の雷神様と称し農民の作神様として有名である。
平成13年10月 吉辰
奉献者 浅学菲才にて神々の御神歴を誤り記し御神威を損なうことを危惧する
奉献 当所 323番地
八十 翁 豊田健男
七十八媼 豊田ハル子 」
二へドンはこの石碑を読んでいて、回りくどい文章で添削したくなってしまったのですが、
石碑の文章をそのまま記載しました。 ただ、石碑には句読点が無く、ブログを読み易く
する為に句読点を付け加えました。
境内には「 迎軍記念碑 」も有り、松井田神楽についての案内板も有りましたので、
これも転記しておきます。
「 小鹿野町指定無形民俗文化財
松井田神楽
昭和55年04月18日指定
天保10年( 1839年 )の創立という琴平神社の祭礼は毎年04月04日で、神楽殿では
神楽が奉納される。 明治14年( 1881年 )雨乞いの神社として知られる群馬県赤
堀村の大雷神社を勧請した後、雨乞い祈願を行なうことが多かった。 以来、松井田の
雷神様として親しまれ、祭礼が盛んになっていったという。 明治21年頃は、秩父市大
田の熊野神社神楽を頼んでいたが、明治23年頃から吉田町井上の貴布祢神社神楽師から
神楽を習ったと伝えられ、現在、18の座が伝承されている。 神楽を舞う人々の熱意は
高く、後継者への受け継ぎも盛んである。 地元の小中学生は小さいうちから練習にと
り組み、祭礼には熱心に神楽を舞っている。
平成28年04月吉日
奉献者 当所 323番地 豊田勝彦 」
小鹿野町の神社仏閣を徒歩で回って歩いて、どんなに小さな祠でも、きちんと案内板が設置
されている所が多く、地元の方々の、神仏を大切にして行こうと言う心に触れた様で頭が
下がる思いでした。 琴平神社の裏手に、山の上に通ずる石段が見えました。
登って行って、山頂のお社もお参りしてみたい気もしましたが、1人で草ボーボーの山の中に
入って行くのは怖い気持ちがして行きませんでした。 残念です。
次回、同行者がいてくれたら、是非山頂にも行ってみたいです。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 琴平神社。 」 ・ 完 *****
2021年07月10日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 八雲神社。
2021年02月19日(金)
小鹿野(おがの)町で1番お参りし
たかった小鹿(おしか)神社を後
にして、小鹿神社通りをバス路線
の有る原町交差点の方へ歩いて行
きました。すると、小鹿神社通り
に面して写真の「 八雲神社 」
が有りました。参拝させて頂きま
した。二へドンは今まで全国各地
の八雲神社を「 やくも 」と発
音していたのですが、「 日本の
神社・寺院検索サイト 」その他
によると「 やぐも 」と振り仮
名が振られていてビックリしまし
た。それでは「 やぐも 」が正
解なんでしょうね。二へドンの個
人的な気持ちでは、余り言葉は濁
らせたくないと思ってしまうので
すが、でも神社は「 じんじゃ
」だし神宮は「 じんぐう 」だ
から、「 やぐも 」でも、ま、
いっか。
無住の小さなお社ですが、説
明版が立っていました。 曰く、
「 八雲神社
起源は新しく、明治の初年に
この地域に疫病が流行したため
祠を建て、八雲神社とした。
初めはささやかな一石祠に過ぎ
なかったが、崇敬者が年々増加
し、大正10年に現在の社殿が建設された。八雲神社前の通りは小鹿神社へ向かう通りで
あるが、小鹿神社の場所には以前は諏訪神社が祀られていたことから、
『 諏訪大門 』と呼ばれた経緯がある。 」
後から知った事ですが、社殿の隣と横路地の奥に井戸が有るそうです。
屋根の掛かった釣瓶を掛ける歯車が今も残っているそうです。
見た様な気もするし、見なかった様な気もします。 再訪したらチェック入れて来ます!
コロナの時代に出会った疫病鎮めの神社は、出会うのが必然だった様に思われます。
神様、どうぞ1日も早く、コロナが収まり、世界の人々が病気の恐怖と苦しみから
解放されますように
11:57 に八雲神社に到着して、12:00 にはもう出発しました。
本当に小さな神社です。
【 神社DATA 】
名称 : 八雲神社( やぐもじんじゃ )
住所 : 〒318 - 0105 埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野 973 - 11
ご祭神 : 素戔嗚尊( すさのおのみこと )
アクセス : バス停「 小鹿野( おがの )」から徒歩3分。
バス停「 原町交差点 」から徒歩4分。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 八雲神社。 」 ・ 完 *****
小鹿野(おがの)町で1番お参りし
たかった小鹿(おしか)神社を後
にして、小鹿神社通りをバス路線
の有る原町交差点の方へ歩いて行
きました。すると、小鹿神社通り
に面して写真の「 八雲神社 」
が有りました。参拝させて頂きま
した。二へドンは今まで全国各地
の八雲神社を「 やくも 」と発
音していたのですが、「 日本の
神社・寺院検索サイト 」その他
によると「 やぐも 」と振り仮
名が振られていてビックリしまし
た。それでは「 やぐも 」が正
解なんでしょうね。二へドンの個
人的な気持ちでは、余り言葉は濁
らせたくないと思ってしまうので
すが、でも神社は「 じんじゃ
」だし神宮は「 じんぐう 」だ
から、「 やぐも 」でも、ま、
いっか。
無住の小さなお社ですが、説
明版が立っていました。 曰く、
「 八雲神社
起源は新しく、明治の初年に
この地域に疫病が流行したため
祠を建て、八雲神社とした。
初めはささやかな一石祠に過ぎ
なかったが、崇敬者が年々増加
し、大正10年に現在の社殿が建設された。八雲神社前の通りは小鹿神社へ向かう通りで
あるが、小鹿神社の場所には以前は諏訪神社が祀られていたことから、
『 諏訪大門 』と呼ばれた経緯がある。 」
後から知った事ですが、社殿の隣と横路地の奥に井戸が有るそうです。
屋根の掛かった釣瓶を掛ける歯車が今も残っているそうです。
見た様な気もするし、見なかった様な気もします。 再訪したらチェック入れて来ます!
コロナの時代に出会った疫病鎮めの神社は、出会うのが必然だった様に思われます。
神様、どうぞ1日も早く、コロナが収まり、世界の人々が病気の恐怖と苦しみから
解放されますように
11:57 に八雲神社に到着して、12:00 にはもう出発しました。
本当に小さな神社です。
【 神社DATA 】
名称 : 八雲神社( やぐもじんじゃ )
住所 : 〒318 - 0105 埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野 973 - 11
ご祭神 : 素戔嗚尊( すさのおのみこと )
アクセス : バス停「 小鹿野( おがの )」から徒歩3分。
バス停「 原町交差点 」から徒歩4分。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 八雲神社。 」 ・ 完 *****
2021年07月03日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社。
2021年02月19日(金)
さあ、いよいよ、二へドンが小鹿野町の神社
仏閣巡りで1番来たかったハイライトの小鹿
神社にやって来ました。先ず気を付けたいの
が、神社の名前です。
町の名前は小鹿野( おがの )ですが、
神社の名前は小鹿( おしか )です。
小鹿野ワーケーションツアーの参加者です
ら、「 おがじんじゃ 」と間違えて呼んで
いましたから、皆さんも気をつけて下さい
ね。 この小鹿神社は国道299号線に面して
1枚目の写真の様な大きな朱塗りの鳥居が立
っていますので、見落とす事は有りません。
日本武尊が東征の折、道に迷いました。そこ
に現れた神鹿がこの地に案内してくれました
が、道案内の役目を終えた鹿は死んでしまっ
たそうです。日本武尊がその鹿を祀った塚が
街の入り口に有るそうです。 残念ながら二
へドンは行って確かめる時間が有りませんで
したので、次回の宿題です。「 小鹿野塚古
墳 」として残っているらしいです。何とこ
の古墳、古墳そのものは確認出来ず( 崩さ
れてしまったらしいのです。)しかし」公園
になっているそうです。小鹿野ワーケーショ
ンツアーの宿舎「 宮本の湯 」の近くだと
後から知り、地団駄を踏みました。
現在の小鹿野町の地名も、日本武尊が
「 小鹿の野原 」と言った事から地名にな
ったと伝えられています。
以下、小鹿神社の境内に在った説明版の文章
を転記しますが、1枚目の写真の所で触れた
日本武尊云々の伝説には一切表記が無いのが
些かショックでは有りました。
2枚目の写真は、小鹿神社の拝殿に至る石
段の前に建てられている古鳥居です。
地味なので、普通の参拝客の方は見落として
通過してしまう様ですが、古鳥居に隠されて
いるであろう秘密については伊勢谷武・著の
「 アマテラスの暗号 」をお読み下さい。
「 小鹿神社 御由緒
小鹿野町小鹿野 1432
当社の創建については、古代から「 おか
の郷 」に座す神として祀られていたが、
後世に小鹿神社となった説、武蔵七党の
丹党に属す小鹿野氏が祀る社であった説、
天慶の乱に武功を立てた藤原秀郷が当地に
来た時に氏神である春日の大神を祀ったと
いう説の三説があり、いずれの説も神社と
地域文化のかかわりを考える上で興味深
い。
鎮座地については、口碑によると、初めは
赤平川の左岸で、春日町の東寄りに当たる
「 明神 」の地に祀られていたが、後に
少し離れた字諏訪に移されたと云われてい
る。この地には古くから諏訪神社( 下社
)が鎮座していたが、「 新編武蔵風土記
稿 には既に字諏訪に鎮座していた諏訪神
社の社名は無く、これに代わり「 小鹿明
神 」とのみ記されていることから諏訪神
社はこの遷座に伴い当社に合祀されたもの
と思わせる。
明治05年( 1872年 )に村社とな
り、同16年( 1883年 )には西秩父
18ヵ村の郷社に昇格した。しかし明治43
年( 1910年 )の豪雨により社地は陥
没し、やむなく字諏訪脇に鎮座する諏訪神
社( 上社 )の境内に遷座した。この
時、この諏訪神社及び境内社三社を合祀し
次いで明治45年( 1912年 )には字美
屋の新井神社をはじめ5社を合祀した。
現在の小鹿神社本殿は、合祀された諏訪
神社( 上社 )の社殿で、棟札には安永
04年( 1775年 )の建造と記されてい
る。 尚、内陣には住吉、諏訪信仰とかか
わりを持っていたと考えられる石棒が収め
られている。」
この石棒と言うのが、如何なる物か、詳細
や写真がネット上で探せなかったので、よく
分からないのですが、縄文時代において、土
偶と共に祭祀遺物の代表と言われる、あの
石棒でしょうか?? この石棒の存在を意外
と皆さん知らないのですよね。何故かと言う
と、小学校の教科書にも中学校の教科書にも
土偶の写真はよく見かけます。が、石棒の写
真は見た事有りません。何故かしら? 祭祀
遺物の代表なのに。恐らく、石棒の形状が何
やら卑猥に見えてしまうからかしら? でも
二へドンも実物を何処かの博物館で見たと言
う経験が有りません。 青森県の三内丸山遺
跡でも、佐賀県の吉野ケ里遺跡でも、展示室
で見た覚えが無いのです。出土はしているの
に。二へドンの今後の旅のテーマは、「 石
棒を求めて 」にします。 神奈川県愛川町
の半縄遺跡、国立市の緑川東遺跡、大宮諏訪
神社( 月夜平遺跡 )等では、完全な姿の
石棒が出土しています。 岐阜県飛騨市の塩
屋金清神社( しおやきんせいじんじゃ )
遺跡は、南山大学の確認調査により、石棒製
作跡の可能性が高くなっています。 民間信
仰のミシャグジ信仰とも関連が有るのか、興
味は尽きません。 では、まとめて写真の説
明をしておきましょう。
3枚目 小鹿神社の拝殿。
4枚目 小鹿神社の拝殿の天井画。
なかなか都会的なセンスの良い図
柄です。
5枚目 小鹿神社の手水舎。 写真では見難
いのですが、普通、手水舎の龍って、縁に作
られていませんか? これは、龍が水の中に
どっぷりと浸かっている状態なんです。
これは珍しいと思い、カメラに収めて来まし
た。 まるで、龍が水浴びを楽しんでいる様
で可愛らしく感じました。
小鹿神社の基本事項をまとめておきます。
旧社格 : 郷社
総本社 : 春日大社(奈良県奈良市)
ご祭神 : 春日神(かすがのかみ)
− 武甕槌神(たけみかづち)
雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、
軍神、武道・競技の必勝、事業の創
始、旅行安全の神。
− 経津主神(ふつぬし)
[別名]斎主神/伊波比主神(いわいぬし
刀剣の威力を神格化した神、海上守
護・国家鎮護の神
− 天児屋根命(あめのこやね)
祝詞の神、出世の神。
※中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする
藤原氏の氏神)
− 比売大神(ひめのおおかみ)
主祭神の妻や娘、宗像三神の説も有。
ご利益 : オートバイの安全祈願、厄除、
交通安全、合格祈願、安産祈願、
商売繁盛、出世開運、良縁祈願、
恋愛成就 他
良縁祈願や恋愛成就の御利益を謳っている
所為でしょうか。 6枚目の写真の様に、御
神籤をくくりつける台は、キューピッドの弓
矢の様にハートに矢が刺さっている形です。
なかなか、遊び心の有る神社さんです。
元々、小鹿野町はオートバイのツーリングを
町興しにPRして来た歴史が有ります。なの
で一般の観光客よりも、ツーリングで来た
ついでに小鹿神社にお参りをするライダー達
が多かったのです。そんなライダー達の為に
「 転倒防止守り 」が受けられます。 二
へドンはバイクには乗りませんが、甥っ子が
バイクで通勤しているので、甥っ子の為に
転倒防止守りを 1つ頂きました。
7枚目の写真は小鹿神社の
階段の下に設置されてい
る看板です。 OGANO
とローマ字で表記された
町名をバイクのイラスト
に取り込んだ、なかなか
秀逸なデザインだと思い
ます。 看板の右側に転
倒防止守りのイラストが
描かれています。転倒に
掛けて、てんとう虫のイ
ラストなんです。
8枚目の写真は、小鹿神社の社殿のあちこ
ちに立て掛けられていた木の棒です。全く同
じデザインの木の棒が、複数本置かれている
ので、恐らく奉納されたものだと思います。
持ち手(?)の部分に×の形に切込みが入れ
られているのが印象的です。二へドンは他の
神社で、こう言った物を見た事が有りませ
ん。 これは一体何なのでしょうか?
諏訪信仰と何か関係が有るのでしょうか?
小鹿神社が諏訪神社と合祀された流れから考
えると、諏訪信仰っぽい気がします。 それ
とも、ミシャグジ信仰なのでしょうか? ミ
シャグジは長野県諏訪地域が、その震源とさ
れ、諏訪信仰に関わっていると考えられま
す。 古木の根元に石棒や木棒を祀るのが典
型的なミシャグジの有り方です。 ミシャグ
ジは木に降りて、石に宿る神霊と信じられて
いた様です。
小鹿野町の町名の由来が、日本武尊を案内し
た鹿だった為か、はたまた、諏訪大社と鹿が
深い関係に有った為か、小鹿神社から続く道
を奥に辿って行くと鹿公園が有ります。
50円で鹿に餌やりが出来るそうです。 奈
良公園の鹿せんべいが200円ですから、これ
は安いです
9枚目の写真は、境内に在る「 豊森稲荷
」のお社です。 小鹿神社拝殿の左手の小さ
な鳥居3基の有る階段を登ると、写真のお社
が有ります。 お稲荷さんの右手を少し登る
と「 神宮山陵遥拝所 」の石碑が有りま
す。 神宮山陵って何処かしら? 山陵と言
うのは御陵。つまり、皇室の方々の墳墓の総
称です。畝傍山( うねびやま )の麓、橿
原神宮に北接する神武天皇陵の事ですか?
もう神社1つ参拝しても、分からない事だら
けで嫌になっちゃいますね。
遥拝所の石碑から更に奥に「 合同社 」
が有ります。 6社が並んでいて、左から水
速女神社、天満天神社、古峰神社、三峯神社
、八幡神社、大山祇神社です。
ご朱印は、コンクリート造りの立派な社
務所で頂けます。 コロナの時代は、ご朱印
は書置きのみと言う神社さんが多くなりまし
たが、ここは御朱印帳に直書きしてくれまし
た。 参拝形式は通常の「 二拝二拍一拝
」 です。
【 小鹿神社 DATA 】
神社名 : 小鹿神社
所在地 : 〒368 - 0105
埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432
電話番号 : 0494 - 75 - 2437
最寄り駅 : 秩父鉄道秩父本線「秩父」駅より西武バスにて
「 小鹿野( おがの )」か「 原町( はらまち )」にて下車。
徒歩10分。
二へドンが実際に歩いてみた所
11:15 小鹿神社の赤い大きい一の鳥居を潜る。
11:20 小鹿神社の階段下に到着。 日の丸が掲揚されていて清々しい気分でした。
古鳥居は原生林から持って来ましたと言う感じの古色蒼然とした木の柱でした。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社。 」 ・ 完 *****
さあ、いよいよ、二へドンが小鹿野町の神社
仏閣巡りで1番来たかったハイライトの小鹿
神社にやって来ました。先ず気を付けたいの
が、神社の名前です。
町の名前は小鹿野( おがの )ですが、
神社の名前は小鹿( おしか )です。
小鹿野ワーケーションツアーの参加者です
ら、「 おがじんじゃ 」と間違えて呼んで
いましたから、皆さんも気をつけて下さい
ね。 この小鹿神社は国道299号線に面して
1枚目の写真の様な大きな朱塗りの鳥居が立
っていますので、見落とす事は有りません。
日本武尊が東征の折、道に迷いました。そこ
に現れた神鹿がこの地に案内してくれました
が、道案内の役目を終えた鹿は死んでしまっ
たそうです。日本武尊がその鹿を祀った塚が
街の入り口に有るそうです。 残念ながら二
へドンは行って確かめる時間が有りませんで
したので、次回の宿題です。「 小鹿野塚古
墳 」として残っているらしいです。何とこ
の古墳、古墳そのものは確認出来ず( 崩さ
れてしまったらしいのです。)しかし」公園
になっているそうです。小鹿野ワーケーショ
ンツアーの宿舎「 宮本の湯 」の近くだと
後から知り、地団駄を踏みました。
現在の小鹿野町の地名も、日本武尊が
「 小鹿の野原 」と言った事から地名にな
ったと伝えられています。
以下、小鹿神社の境内に在った説明版の文章
を転記しますが、1枚目の写真の所で触れた
日本武尊云々の伝説には一切表記が無いのが
些かショックでは有りました。
2枚目の写真は、小鹿神社の拝殿に至る石
段の前に建てられている古鳥居です。
地味なので、普通の参拝客の方は見落として
通過してしまう様ですが、古鳥居に隠されて
いるであろう秘密については伊勢谷武・著の
「 アマテラスの暗号 」をお読み下さい。
「 小鹿神社 御由緒
小鹿野町小鹿野 1432
当社の創建については、古代から「 おか
の郷 」に座す神として祀られていたが、
後世に小鹿神社となった説、武蔵七党の
丹党に属す小鹿野氏が祀る社であった説、
天慶の乱に武功を立てた藤原秀郷が当地に
来た時に氏神である春日の大神を祀ったと
いう説の三説があり、いずれの説も神社と
地域文化のかかわりを考える上で興味深
い。
鎮座地については、口碑によると、初めは
赤平川の左岸で、春日町の東寄りに当たる
「 明神 」の地に祀られていたが、後に
少し離れた字諏訪に移されたと云われてい
る。この地には古くから諏訪神社( 下社
)が鎮座していたが、「 新編武蔵風土記
稿 には既に字諏訪に鎮座していた諏訪神
社の社名は無く、これに代わり「 小鹿明
神 」とのみ記されていることから諏訪神
社はこの遷座に伴い当社に合祀されたもの
と思わせる。
明治05年( 1872年 )に村社とな
り、同16年( 1883年 )には西秩父
18ヵ村の郷社に昇格した。しかし明治43
年( 1910年 )の豪雨により社地は陥
没し、やむなく字諏訪脇に鎮座する諏訪神
社( 上社 )の境内に遷座した。この
時、この諏訪神社及び境内社三社を合祀し
次いで明治45年( 1912年 )には字美
屋の新井神社をはじめ5社を合祀した。
現在の小鹿神社本殿は、合祀された諏訪
神社( 上社 )の社殿で、棟札には安永
04年( 1775年 )の建造と記されてい
る。 尚、内陣には住吉、諏訪信仰とかか
わりを持っていたと考えられる石棒が収め
られている。」
この石棒と言うのが、如何なる物か、詳細
や写真がネット上で探せなかったので、よく
分からないのですが、縄文時代において、土
偶と共に祭祀遺物の代表と言われる、あの
石棒でしょうか?? この石棒の存在を意外
と皆さん知らないのですよね。何故かと言う
と、小学校の教科書にも中学校の教科書にも
土偶の写真はよく見かけます。が、石棒の写
真は見た事有りません。何故かしら? 祭祀
遺物の代表なのに。恐らく、石棒の形状が何
やら卑猥に見えてしまうからかしら? でも
二へドンも実物を何処かの博物館で見たと言
う経験が有りません。 青森県の三内丸山遺
跡でも、佐賀県の吉野ケ里遺跡でも、展示室
で見た覚えが無いのです。出土はしているの
に。二へドンの今後の旅のテーマは、「 石
棒を求めて 」にします。 神奈川県愛川町
の半縄遺跡、国立市の緑川東遺跡、大宮諏訪
神社( 月夜平遺跡 )等では、完全な姿の
石棒が出土しています。 岐阜県飛騨市の塩
屋金清神社( しおやきんせいじんじゃ )
遺跡は、南山大学の確認調査により、石棒製
作跡の可能性が高くなっています。 民間信
仰のミシャグジ信仰とも関連が有るのか、興
味は尽きません。 では、まとめて写真の説
明をしておきましょう。
3枚目 小鹿神社の拝殿。
4枚目 小鹿神社の拝殿の天井画。
なかなか都会的なセンスの良い図
柄です。
5枚目 小鹿神社の手水舎。 写真では見難
いのですが、普通、手水舎の龍って、縁に作
られていませんか? これは、龍が水の中に
どっぷりと浸かっている状態なんです。
これは珍しいと思い、カメラに収めて来まし
た。 まるで、龍が水浴びを楽しんでいる様
で可愛らしく感じました。
小鹿神社の基本事項をまとめておきます。
旧社格 : 郷社
総本社 : 春日大社(奈良県奈良市)
ご祭神 : 春日神(かすがのかみ)
− 武甕槌神(たけみかづち)
雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、
軍神、武道・競技の必勝、事業の創
始、旅行安全の神。
− 経津主神(ふつぬし)
[別名]斎主神/伊波比主神(いわいぬし
刀剣の威力を神格化した神、海上守
護・国家鎮護の神
− 天児屋根命(あめのこやね)
祝詞の神、出世の神。
※中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする
藤原氏の氏神)
− 比売大神(ひめのおおかみ)
主祭神の妻や娘、宗像三神の説も有。
ご利益 : オートバイの安全祈願、厄除、
交通安全、合格祈願、安産祈願、
商売繁盛、出世開運、良縁祈願、
恋愛成就 他
良縁祈願や恋愛成就の御利益を謳っている
所為でしょうか。 6枚目の写真の様に、御
神籤をくくりつける台は、キューピッドの弓
矢の様にハートに矢が刺さっている形です。
なかなか、遊び心の有る神社さんです。
元々、小鹿野町はオートバイのツーリングを
町興しにPRして来た歴史が有ります。なの
で一般の観光客よりも、ツーリングで来た
ついでに小鹿神社にお参りをするライダー達
が多かったのです。そんなライダー達の為に
「 転倒防止守り 」が受けられます。 二
へドンはバイクには乗りませんが、甥っ子が
バイクで通勤しているので、甥っ子の為に
転倒防止守りを 1つ頂きました。
7枚目の写真は小鹿神社の
階段の下に設置されてい
る看板です。 OGANO
とローマ字で表記された
町名をバイクのイラスト
に取り込んだ、なかなか
秀逸なデザインだと思い
ます。 看板の右側に転
倒防止守りのイラストが
描かれています。転倒に
掛けて、てんとう虫のイ
ラストなんです。
8枚目の写真は、小鹿神社の社殿のあちこ
ちに立て掛けられていた木の棒です。全く同
じデザインの木の棒が、複数本置かれている
ので、恐らく奉納されたものだと思います。
持ち手(?)の部分に×の形に切込みが入れ
られているのが印象的です。二へドンは他の
神社で、こう言った物を見た事が有りませ
ん。 これは一体何なのでしょうか?
諏訪信仰と何か関係が有るのでしょうか?
小鹿神社が諏訪神社と合祀された流れから考
えると、諏訪信仰っぽい気がします。 それ
とも、ミシャグジ信仰なのでしょうか? ミ
シャグジは長野県諏訪地域が、その震源とさ
れ、諏訪信仰に関わっていると考えられま
す。 古木の根元に石棒や木棒を祀るのが典
型的なミシャグジの有り方です。 ミシャグ
ジは木に降りて、石に宿る神霊と信じられて
いた様です。
小鹿野町の町名の由来が、日本武尊を案内し
た鹿だった為か、はたまた、諏訪大社と鹿が
深い関係に有った為か、小鹿神社から続く道
を奥に辿って行くと鹿公園が有ります。
50円で鹿に餌やりが出来るそうです。 奈
良公園の鹿せんべいが200円ですから、これ
は安いです
9枚目の写真は、境内に在る「 豊森稲荷
」のお社です。 小鹿神社拝殿の左手の小さ
な鳥居3基の有る階段を登ると、写真のお社
が有ります。 お稲荷さんの右手を少し登る
と「 神宮山陵遥拝所 」の石碑が有りま
す。 神宮山陵って何処かしら? 山陵と言
うのは御陵。つまり、皇室の方々の墳墓の総
称です。畝傍山( うねびやま )の麓、橿
原神宮に北接する神武天皇陵の事ですか?
もう神社1つ参拝しても、分からない事だら
けで嫌になっちゃいますね。
遥拝所の石碑から更に奥に「 合同社 」
が有ります。 6社が並んでいて、左から水
速女神社、天満天神社、古峰神社、三峯神社
、八幡神社、大山祇神社です。
ご朱印は、コンクリート造りの立派な社
務所で頂けます。 コロナの時代は、ご朱印
は書置きのみと言う神社さんが多くなりまし
たが、ここは御朱印帳に直書きしてくれまし
た。 参拝形式は通常の「 二拝二拍一拝
」 です。
【 小鹿神社 DATA 】
神社名 : 小鹿神社
所在地 : 〒368 - 0105
埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432
電話番号 : 0494 - 75 - 2437
最寄り駅 : 秩父鉄道秩父本線「秩父」駅より西武バスにて
「 小鹿野( おがの )」か「 原町( はらまち )」にて下車。
徒歩10分。
二へドンが実際に歩いてみた所
11:15 小鹿神社の赤い大きい一の鳥居を潜る。
11:20 小鹿神社の階段下に到着。 日の丸が掲揚されていて清々しい気分でした。
古鳥居は原生林から持って来ましたと言う感じの古色蒼然とした木の柱でした。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社。 」 ・ 完 *****
2021年06月10日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 成田横丁の不動尊。
2021年02月19日(金)
小鹿野町役場から愛宕神社へ向かって歩いて
行く途中で、遠目に赤銅の屋根がピカピカ光
っているのが見えました。興味をそそられ行
ってみると、それが写真の不動尊でした。
09:58 に着きました。 成田横丁と呼ばれ
る狭い路地に面しており、愛宕神社とは背中
合わせに建っている様なロケーションでした
。 とても荒れ果てた感じで、無住のお寺で
す。 色彩には乏しいものの、彫刻等はとて
も見事です。
お堂の中を覗いてみると、右手に大太鼓が
置いてあり、段ボール箱が幾つか雑然と積み
上げられています。 この不動尊のお堂の中
にも、愛宕神社の本殿の中と同様、額に入っ
た集合写真が沢山並んでいます。
お賽銭箱が、とても大きくて立派です。
地方の小さなお堂で、ここまで立派な賽銭箱
は、そうお目にかかれる物ではありません。
写真には撮りませんでしたが、お堂の裏
手には不動明王様の石像が2体置かれていま
した。置かれていると言うよりは、放置され
ていると言った方がいい位の寂寥感です。
境内の地面には、団栗がびっしりと敷き詰め
られる様に落ちています。 カラスが3羽、
地面に下りて、仕切りに
何かをついばんでいます
。周囲は平和の気分に充
ち溢れている様です。
付近は雀を始め、様々な
小鳥の囀りでいっぱいで
す。 龍の彫刻が凄い迫
力なので、アップの写真
も載せておきますね。
龍の目が生きているんで
す。活きると書いた方が
良いかもしれません。
後で知った事なのですが、この不動尊、常盤屋さん( 小鹿野町指定文化財の加藤家
住宅 )が明治18年に建造した建物なんだそうです。 成田山から勧請して来ました。
土蔵造りの母屋を造った時の余り材で造った驚きのお寺さん。
余り材で、この立派さって何!? 二へドンの家にも分けて欲しいわ。
つまり、この不動尊は個人所有ってな訳です。
いやはや、驚きますね。 母屋の余りでお寺が建つ!????
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 成田横丁の不動尊。 」 ・ 完 *****
小鹿野町役場から愛宕神社へ向かって歩いて
行く途中で、遠目に赤銅の屋根がピカピカ光
っているのが見えました。興味をそそられ行
ってみると、それが写真の不動尊でした。
09:58 に着きました。 成田横丁と呼ばれ
る狭い路地に面しており、愛宕神社とは背中
合わせに建っている様なロケーションでした
。 とても荒れ果てた感じで、無住のお寺で
す。 色彩には乏しいものの、彫刻等はとて
も見事です。
お堂の中を覗いてみると、右手に大太鼓が
置いてあり、段ボール箱が幾つか雑然と積み
上げられています。 この不動尊のお堂の中
にも、愛宕神社の本殿の中と同様、額に入っ
た集合写真が沢山並んでいます。
お賽銭箱が、とても大きくて立派です。
地方の小さなお堂で、ここまで立派な賽銭箱
は、そうお目にかかれる物ではありません。
写真には撮りませんでしたが、お堂の裏
手には不動明王様の石像が2体置かれていま
した。置かれていると言うよりは、放置され
ていると言った方がいい位の寂寥感です。
境内の地面には、団栗がびっしりと敷き詰め
られる様に落ちています。 カラスが3羽、
地面に下りて、仕切りに
何かをついばんでいます
。周囲は平和の気分に充
ち溢れている様です。
付近は雀を始め、様々な
小鳥の囀りでいっぱいで
す。 龍の彫刻が凄い迫
力なので、アップの写真
も載せておきますね。
龍の目が生きているんで
す。活きると書いた方が
良いかもしれません。
後で知った事なのですが、この不動尊、常盤屋さん( 小鹿野町指定文化財の加藤家
住宅 )が明治18年に建造した建物なんだそうです。 成田山から勧請して来ました。
土蔵造りの母屋を造った時の余り材で造った驚きのお寺さん。
余り材で、この立派さって何!? 二へドンの家にも分けて欲しいわ。
つまり、この不動尊は個人所有ってな訳です。
いやはや、驚きますね。 母屋の余りでお寺が建つ!????
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 成田横丁の不動尊。 」 ・ 完 *****
2021年06月08日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 愛宕神社。
2021年02月19日(金)
小鹿野( おがの )町を1人で徒歩で散策
します。 小鹿( おしか )神社旧本殿か
ら町立病院の信号の有る四つ角を少し進み、
「 あたごラーメン 」の前の路地に入る
と、其処が「 愛宕通り 」です。 通りと
は言っても人とすれ違えない程の狭い路地で
す。小鹿野町の観光名所の1つに、この路地
が上げられます。 バス通りから見ると、村
上酒店横から入ります。この愛宕通りは
「 南浦通り 」に繋がり、成田横丁に平行
する路地です。
この路地に面して鳥居が立っているので
直ぐに分かります。境内は静か~。
09:40 に愛宕神社に着きました。社殿の左
側は砂利敷きのがらんどうの広~いスペース
です。車も1台も無く( まあ、あの狭い路
地は車は通れないけれども )四方八方にベ
ンチが置いてあります。
社殿に近付き、中を覗いてみました。中は
薄暗く、12畳の畳敷となっています。周囲
の壁には額に入った町民の集合写真がずらり
と並んでいます。左手には和太鼓が置いてあ
るのが見えました。 神社の説明板が有りま
した。曰く、
「 防火の神。愛宕神社所蔵文書は明治以降
の祭礼の変遷を伝え、たいへん貴重。本
殿は、明治37年に建立された。この広
場には明治45年に原町の個人所有の建
物を移築し町内有志により蘇えらせた愛
宕座という芝居小屋があった。回り舞台
、せり上げ、升席を備えた興行劇場であ
ったが、老朽化のため昭和46年に解体
された。」
往時を懐かしみ、また小鹿野の地芝居文化の
場として建物の再建を望む声も有るのだとか
。二へドンも、部外者ですが、回り舞台の有
る芝居小屋を是非再建して貰いたいと思いま
す。路地を舞台にしたお祭りイベント
「 路地St. ( ロジスタ )」が催される
時の貴重なオープンスペースとなっているよ
うです。
[ 愛宕座跡のトリビア ]
サッカー日本代表GK 川島永嗣選手が子供
の頃、小鹿野の親戚の家に遊びに来ると、
愛宕座跡地でサッカーボールを蹴って遊んで
いたそうです。
09:53 に愛宕神社を出ました。
【 愛宕神社DATA 】
所在地 : 〒 368 - 0105
埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野 323
36°01'09.3"N 139°00'11.0"E
電話 : 無し
社務所 : 無し。 御朱印は通常頂けません。
標高 : 254 m
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 愛宕神社。 」 ・ 完 *****
小鹿野( おがの )町を1人で徒歩で散策
します。 小鹿( おしか )神社旧本殿か
ら町立病院の信号の有る四つ角を少し進み、
「 あたごラーメン 」の前の路地に入る
と、其処が「 愛宕通り 」です。 通りと
は言っても人とすれ違えない程の狭い路地で
す。小鹿野町の観光名所の1つに、この路地
が上げられます。 バス通りから見ると、村
上酒店横から入ります。この愛宕通りは
「 南浦通り 」に繋がり、成田横丁に平行
する路地です。
この路地に面して鳥居が立っているので
直ぐに分かります。境内は静か~。
09:40 に愛宕神社に着きました。社殿の左
側は砂利敷きのがらんどうの広~いスペース
です。車も1台も無く( まあ、あの狭い路
地は車は通れないけれども )四方八方にベ
ンチが置いてあります。
社殿に近付き、中を覗いてみました。中は
薄暗く、12畳の畳敷となっています。周囲
の壁には額に入った町民の集合写真がずらり
と並んでいます。左手には和太鼓が置いてあ
るのが見えました。 神社の説明板が有りま
した。曰く、
「 防火の神。愛宕神社所蔵文書は明治以降
の祭礼の変遷を伝え、たいへん貴重。本
殿は、明治37年に建立された。この広
場には明治45年に原町の個人所有の建
物を移築し町内有志により蘇えらせた愛
宕座という芝居小屋があった。回り舞台
、せり上げ、升席を備えた興行劇場であ
ったが、老朽化のため昭和46年に解体
された。」
往時を懐かしみ、また小鹿野の地芝居文化の
場として建物の再建を望む声も有るのだとか
。二へドンも、部外者ですが、回り舞台の有
る芝居小屋を是非再建して貰いたいと思いま
す。路地を舞台にしたお祭りイベント
「 路地St. ( ロジスタ )」が催される
時の貴重なオープンスペースとなっているよ
うです。
[ 愛宕座跡のトリビア ]
サッカー日本代表GK 川島永嗣選手が子供
の頃、小鹿野の親戚の家に遊びに来ると、
愛宕座跡地でサッカーボールを蹴って遊んで
いたそうです。
09:53 に愛宕神社を出ました。
【 愛宕神社DATA 】
所在地 : 〒 368 - 0105
埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野 323
36°01'09.3"N 139°00'11.0"E
電話 : 無し
社務所 : 無し。 御朱印は通常頂けません。
標高 : 254 m
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 愛宕神社。 」 ・ 完 *****
2021年06月06日
小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社旧本殿。
2021年02月19日(金)
小鹿野町役場で西武バスの路線バスを下りた
二へドンは、待合室で暫しまったりとした後
08:55 に散策をスタートしました。
小鹿野町( おがのまち )の中に幾つか
「 小鹿神社( おしかじんじゃ )」が有
ります。 よく町の名前と同じく「 おが神
社 」と呼ぶ人がいますが、神社の名前は
「 おしか 」が正解です。 小鹿野町の地
図を見ると、町役場から近い所にも小鹿神社
が有る様なので、早速行ってみましょう!
09:08 「 小鹿神社旧本殿 」と看板が出
ていました。 以前、ここが神社として多く
の参拝者が来ていた頃は広い境内を有してい
たであろう場所は現在では駐車場となってい
ます。 まるで広い駐車場の端に、ひっそり
と身を縮めて社殿が居候しているかの様で
す。 神社の説明版が有りましたので、
転記しておきます。
「 小鹿野町指定有形文化財( 建造物 )
昭和45年12月13日指定
小鹿神社旧本殿一棟
江戸時代初期の小鹿野の由緒を記した記
録には、腰之根地内上の森に諏訪明神を
祀り、下小鹿野から小鹿野明神を街並み
の入り口に移し、両社を小鹿野上郷の鎮
守として奉ったとあります。
小鹿神社は、赤平川に南面して建てら
れていましたが、明治38年の地震、明
治43年の水害などにより、境内地が地
すべりを起こしたため現在の腰之根地内
の社地へ移転しました。
諏訪明神は小鹿神社に合祀され現在に
至っています。 小鹿神社旧本殿は飛地
境内となり社殿のみが残されました。
桁行( けたゆき・門口 ) 142 cm
梁間( はりま・奥行 ) 153 cm
流造り、正面に唐破風( からはふ・曲
線状の装飾板 )と千鳥破風の装飾があ
る向拝( こうはい・正面階段に張り出
した廂の部分 )が付きます。
建物は切石の基壇上に建ち、地覆(
じふく・最下部の横材 )下に亀腹(
かめばら・上壇 )、浜縁( 向拝の階
段の下の床 )付、組物は二手先、二重
虹梁( やや反りを持たせて造った化粧
梁 )、大瓶束( たいへいづか・虹梁
の上に立てる瓶子形の束柱 )など
華やかな構造形式を採っています。 」
社殿はしっかりと覆屋で覆われています。
先祖から受け継いで来た物を守って行こうと言う土地の人達の気持ちが嬉しいですね。
龍の彫刻もリズミカルで、とても素晴らしいと思いました。
覆い耶の隙間から舐める様に社殿を見て、09:28に小鹿神社旧本殿を後にしました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社旧本殿。 」 ・ 完 *****
小鹿野町役場で西武バスの路線バスを下りた
二へドンは、待合室で暫しまったりとした後
08:55 に散策をスタートしました。
小鹿野町( おがのまち )の中に幾つか
「 小鹿神社( おしかじんじゃ )」が有
ります。 よく町の名前と同じく「 おが神
社 」と呼ぶ人がいますが、神社の名前は
「 おしか 」が正解です。 小鹿野町の地
図を見ると、町役場から近い所にも小鹿神社
が有る様なので、早速行ってみましょう!
09:08 「 小鹿神社旧本殿 」と看板が出
ていました。 以前、ここが神社として多く
の参拝者が来ていた頃は広い境内を有してい
たであろう場所は現在では駐車場となってい
ます。 まるで広い駐車場の端に、ひっそり
と身を縮めて社殿が居候しているかの様で
す。 神社の説明版が有りましたので、
転記しておきます。
「 小鹿野町指定有形文化財( 建造物 )
昭和45年12月13日指定
小鹿神社旧本殿一棟
江戸時代初期の小鹿野の由緒を記した記
録には、腰之根地内上の森に諏訪明神を
祀り、下小鹿野から小鹿野明神を街並み
の入り口に移し、両社を小鹿野上郷の鎮
守として奉ったとあります。
小鹿神社は、赤平川に南面して建てら
れていましたが、明治38年の地震、明
治43年の水害などにより、境内地が地
すべりを起こしたため現在の腰之根地内
の社地へ移転しました。
諏訪明神は小鹿神社に合祀され現在に
至っています。 小鹿神社旧本殿は飛地
境内となり社殿のみが残されました。
桁行( けたゆき・門口 ) 142 cm
梁間( はりま・奥行 ) 153 cm
流造り、正面に唐破風( からはふ・曲
線状の装飾板 )と千鳥破風の装飾があ
る向拝( こうはい・正面階段に張り出
した廂の部分 )が付きます。
建物は切石の基壇上に建ち、地覆(
じふく・最下部の横材 )下に亀腹(
かめばら・上壇 )、浜縁( 向拝の階
段の下の床 )付、組物は二手先、二重
虹梁( やや反りを持たせて造った化粧
梁 )、大瓶束( たいへいづか・虹梁
の上に立てる瓶子形の束柱 )など
華やかな構造形式を採っています。 」
社殿はしっかりと覆屋で覆われています。
先祖から受け継いで来た物を守って行こうと言う土地の人達の気持ちが嬉しいですね。
龍の彫刻もリズミカルで、とても素晴らしいと思いました。
覆い耶の隙間から舐める様に社殿を見て、09:28に小鹿神社旧本殿を後にしました。
*****「 小鹿野ワーケーションツアーリポート ~ 小鹿神社旧本殿。 」 ・ 完 *****