2011年03月08日
杉田の梅林
2011年03月08日(火)
12年も磯子スポーツセンターに通っているのに、
今日初めて、スポーツセンター近くの梅の名所の妙法寺に行ってみました。
写真の梅の木は、妙法寺の境内に有るものでは
ありません。
お寺の脇に、広い空き地が有りまして、
カラスの天国みたいになっています。
そこに生えている梅の大木です。
妙法寺境内の梅は、まだ咲いてはいるものの、
盛りは過ぎたという感じでした。
妙法寺の門の脇に立てられていた説明書きから
転記します。
「 この辺り一体は地質が穀類や蔬菜類には
適さないので、
天正年間( 1573-1592 )
領主・間宮信茂( まみや のぶしげ )が
梅樹の植林を奨励し、その果実を売らせて
生活の一助とさせました。
梅樹は土地に合い繁茂し、元禄( 1688-1704 )の頃には
3万株となり、寛政~享和 ( 1789-1804 )の頃には
近隣の森、根岸、滝頭、富岡の村々も梅樹を植えたと伝えられています。
明和~安永( 1764-1781 )の頃、杉田の梅は
金沢探勝のルートとして加えられる様になり、
文化~文政( 1804-1830 )の頃には、
江戸近郊の名所として文人墨客が訪れ、
佐藤一斉の『 杉田村観梅記 』、清水浜臣の『 杉田日記 』が
出版されてからは一層有名になりました。
12年も磯子スポーツセンターに通っているのに、
今日初めて、スポーツセンター近くの梅の名所の妙法寺に行ってみました。
写真の梅の木は、妙法寺の境内に有るものでは
ありません。
お寺の脇に、広い空き地が有りまして、
カラスの天国みたいになっています。
そこに生えている梅の大木です。
妙法寺境内の梅は、まだ咲いてはいるものの、
盛りは過ぎたという感じでした。
妙法寺の門の脇に立てられていた説明書きから
転記します。
「 この辺り一体は地質が穀類や蔬菜類には
適さないので、
天正年間( 1573-1592 )
領主・間宮信茂( まみや のぶしげ )が
梅樹の植林を奨励し、その果実を売らせて
生活の一助とさせました。
梅樹は土地に合い繁茂し、元禄( 1688-1704 )の頃には
3万株となり、寛政~享和 ( 1789-1804 )の頃には
近隣の森、根岸、滝頭、富岡の村々も梅樹を植えたと伝えられています。
明和~安永( 1764-1781 )の頃、杉田の梅は
金沢探勝のルートとして加えられる様になり、
文化~文政( 1804-1830 )の頃には、
江戸近郊の名所として文人墨客が訪れ、
佐藤一斉の『 杉田村観梅記 』、清水浜臣の『 杉田日記 』が
出版されてからは一層有名になりました。
Posted by ニヘドン at 21:25│Comments(0)
│歴史散歩
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