2010年05月21日
「 49 アンコールワットの月 」
写真のイラストは、「 クラフト・エヴィング商会 」
2010年05月20日(木)
ニヘドンは毎晩、息子ちゃんに読み聞かせをしている。
こう言うと誤解をする人がいる。
「 字を読めるのだから、自分で読ませなさい。」
違うんだよ。
読み聞かせは、勉強とか情報を得る為にするものではないのだ。
読み聞かせとは、「 時間の共有 」に他ならない。
スーパーでもネット通販でも売っていない貴重な「 時間 」を共有する。
読み聞かせは、母の愛の発露に他ならない。
二へドンが大好きな活字の海の中に、愛する息子ちゃんと無理心中するのだ。
( 変な喩えですけど。 笑。 )
読むものは全くジャンルを問わない。
絵本、青少年向けのライトノベル、文庫本、雑誌・・・・・手当たり次第に読む。
息子ちゃんも、もう高校生なので、新聞記事を読んだりもする。
この日は読売新聞に2008年に連載されていた
「 叙情と闘争 辻井喬 + 堤清二回顧録 」
2008年12月27日(土曜日)の連載分
「 49 アンコールワットの月 」 だ。
以前は二へドンが読み手で、息子ちゃんが聴き手だったが、
最近は息子ちゃんがミュージカルに出演したり、演劇部に所属したり、
はたまた声優の仕事をしてみたいらしいので、
音読を息子ちゃんにさせる事にしている。
でも、二へドンだって小学校での読み聞かせボランティアの為に日頃から音読は
続けていなければならぬ。
そこで、「 。読み 」 をする事にした。
句点の所で、次の人にバトンタッチして、順々に読んで行く方式だ。
これだと緊張感を持って読んだり聞いたり出来る。
親としても、息子がどれだけ漢字を読めるのか把握出来るので面白い。
驚くべき事に、意外と正しく読んでくれる。
今日は、「 蜥蜴( とかげ ) 」 を 「 こうもり 」 と間違えた位だった。
詩人・辻井喬( 本名・堤清二 )の詩を二へドンは今までに読んだ事が無い。
が、この読売新聞での連載で、とても興味を持ったので、いつか彼の詩作品を
読んでみたいと思っている。
まだ、ドストエフスキーとロマン・ロランの宿題を終えていないので、辻井喬に到達
するのはかなり先の事になると思うが・・・・・。
辻井喬の文章は独特の夜の雰囲気に満ちている。
彼の文章の背後には夜の静寂が広がっている。
そして生活臭が無い。
音楽家であれ、画家であれ、作家であれ、何であれ、クリエイティブな仕事をする人達は
五感を縦横無尽に駆使して作品を産み上げると思う。
「 作り上げる 」なんて平凡な言葉では言い表し切れない、産みの苦しみが有る筈なので、
「 産み上げる 」なんていう言葉を捏造してみた。
辻井喬の文章には、五感の中の、特に聴覚が研ぎ澄まされていると感じる。
音楽愛好家の二へドンにとって、こういう音楽に充ちた文章を書く人は好もしい。
この日の新聞5段に亘る連載1回分の分量な中から「 音 」に関する記述を
ピックアップしてみる。
「 時々遠くで銃声が聞こえ 」 「 森の音が聞こえてきた 」
「 蝙蝠( こうもり )が音もなく舞った 」 「 啼き声がした。 大蜥蜴( とかげ )だった 」
「 その声が鎮まると、森のざわめきが聞こえてきた 」
「 若い女性の歌声が聞こえてきた 」
「 西洋の音楽のリズムではない歌を歌ってくれた 」
「 おそらく、このあたりに伝わっている民謡のようなものだろう 」
「 小さな竹を刳り抜いたような笛を取り上げて彼女の歌に合わせた 」
「 日本の歌のように小節を利かせるのではない、ごく自然な発声が
彼女の美しさを魅惑的にしていた 」
「 通奏低音のように響いていた 」 ← この主語は「 罪 」!
どうです。 この音楽に充ちた感覚。
この 「 アンコールワットの月 」は、堤清二が1991年にアンコールワットを
訪問した時のエピソードを綴っている。
アンコールワットを訪れ、その体験記を書いた人は大勢いるが、大半が視覚的な
アプローチだったと思う。
ここまで聴覚をフル回転させてアンコールワットを描写した人を他に知らない。
堤清二と言えば、セゾングループ帝国に生まれ落ちた経済人の筈だが、
この感性をどこから得たのだろうか?
詩人は貧乏というのは誤った先入観だったのか?
そう言えばメンデルスゾーンも裕福な銀行家の生まれだったな。
天は二物を与えちゃうのか。 悔しいなあ・・・・・・・。
Posted by ニヘドン at 02:16│Comments(0)
│読書
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